女川町復興支援への想い(その①)
宮城県女川町と板橋区を結んだ交流
遡るところ1998年夏、板橋区の小学校では「浜のかあさんと語ろう会」という女川と板橋を結ぶ交流が始まっていました。
女川といえばサンマ。「浜のかあさん」たちは、都会の子供たちにも獲れたて新鮮な美味しいサンマを食べてもらいたいと、魚のさばき方を教え、一緒に調理をして子供たちを喜ばせてくれました。
女川町の方々に、大変お世話になりながら、その取り組みは9年間に亘り続きました。
ウーマンズフォーラム魚資料より
東日本大震災と女川町復興支援ネットワーク設立
そんな中、忘れもしない2011年3月11日、未曽有の被害をもたらした東日本大震災が発生し、女川町も津波に襲われました。
何ができるだろうか。何かできないだろうか。東日本大震災の復興支援を考えた時、長きに亘る女川町と板橋区の過去の関係性を思いました。
過去の記録には、お世話になっている女川町の皆さまに対し、板橋区からは、感謝を表す大きな活動記録が残念ながら見当たらないことを板橋区議の先生から知りました。
そこで「今こそ恩返ししなくては、いつするのか」と板橋の有志を中心に、各方面から想いのある人たちが集い、女川町復興支援ネットワークを立ち上げ、代表に弊社会長の鈴木靜雄が就任させていただきました。
津波により甚大な被害を受けた女川町に、いち早く支援に駆け付けたのは、小学生の時、女川町のサンマを食べて育ち、二十歳になった板橋区のサンマっ子たちでした。それに続けと、私たち大人も被災地に向かい、女川町須田町長はじめ、九死に一生を得た女川の人たちと出会いました。
女川町役場訪問
想像を絶する巨大な津波を耐え忍んだ桜の木
今でも当時の記憶が鮮明に残っていますが、その中でも20m近い津波を耐え忍んだ桜の木は、女川町民に希望の光を与えました。
女川町再建計画を子供たちとジオラマで再現
女川町役場訪問から現地視察などを終え、復興を目指す女川町の皆様と交流を深める懇親会を行いました。
「応援してくれる仲間がいることがとても嬉しい、町の復興に全力で取り組んでいきます」という力強いお言葉と、皆さんの笑顔に触れ、復興するその日まで、できる限り精一杯支援することを胸に誓いました。
つづく
(長編のため、ここまでをその①とさせていただきます。)
会長秘書 玉広投稿